卒業式(小学校)

今日は娘の小学校の卒業式でした。

桜咲く6年前、元気良く入学式を迎えた我が娘。月日が流れるのは早いもので、あっという間に6年が過ぎ今日は卒業式。私が小学校を卒業したのは、はるか昔であるが、我が母校は今も変わらず。うーん、感動的でした。

ところで、撮影をどうするのか当日の朝まで悩みました。そもそも平日の卒業式に父親がどのくらい参加するのか不明。いつぞやの授業参観のように「父親の参加者はたったの3名」だと恥ずかしいぞと娘に「お父さんがどのくらいくるのか友達に聞いてよ」と何度も催促したが結局“不明”。

まあこうなったら娘の小学校生活最後のイベントであるからして気合を入れて撮影するかと機材一式抱えて出撃。父母席を見ると結構な数の「お父さん」。やれやれ一安心。ところが…。

撮影モード気分なのは私一人ジャン。皆さん席でおとなしくしている…。

「一脚+望遠レンズ」の撮影スタイルではまるでどこかの出張写真屋さんみたいである。しかし、いまさら引き下がるわけにはいかぬ。撮影ポイントを慎重に選び、卒業式が始まるのを待つ。開始10分前にようやくカメラマン2号登場。お仲間が居てよかった〜。これで遠慮なくビシバシ撮れるぞ〜。と思ったのもつかぬま、彼の装備は高倍率コンパクトデジカメ+ビデオであった。その装備なら「卒業式にやってきたお父さん」に相応しいかも…。

完璧にカメラマンモードに突入した私は、卒業式を遠慮なくバシャバシャ撮ったのであった。

式後、教室で「最後の先生のお話」は感動ものですね。その後の記念写真大会の盛り上がりようも凄まじい。でも、撮っているのは「お母さん」たちばかり。父母席に居た「お父さん」たちはどこへ消えたのだろうか。

OUTLOOK絶対主義?

OUTLOOKの全社掲示板に投稿された記事や全社員宛メールで届いたものをHTMLページ化してイントラにアップしているのだが、「最初からHTMLページを作ってくれよ」と思いつつ数年経つ。しかし、最近少し考え方を変える必要があるかもと思い始めた。

HTML ページを作ってサーバへアップするということなど小学生(やる気のある)でもできる。中学生にもなれば容易いことだろう。何も難しいことではないのだから。ところが会社にくると何か違うと思えてくる。「誰でもできる」というのはどんなレベルなのだろうか。誰しも何かしようと考え行動するであろうが、会社勤めをしている人たちというのは、その「何かしよう」がイコール“働いて金をもらう”であるからして、興味本位で何かを始めるというわけではないのかもしれない。だから小学生や中学生にできることが会社員にはできないのでは思えてきた。

「メールをやれ」→「OUTLOOKを使え」→「OUTLOOKの使い方はこうだ」
と流れからきて必然的に“OUTLOOK絶対主義”になっていく。すなわちそれが全てだと思い込み、他の方法など思いつかない、そして新しいことに抵抗と否定。

以前は「メールはテキスト形式で送る」というのが常識であったが、最近はOUTLOOK中毒者が増えてきたせいか「リッチテキスト」や「HTML形式」のメールがやたらと送られてくる。デカイ文字、強調文字、カラフルな文字、自分の文章力の無さを飾りで誤魔化しているのが真実であろう。そのようなメールを容易く作ることができてしまうのがOUTLOOKであり、OUTLOOKしか知らない人でも簡単に“見た目綺麗”なメールを大勢に送りつけることができる。巨大な添付ファイルも“普通のこと”のように送り付けることもできている。

つまりは「ワープロ」の延長線上にある「ワープロみたいなメーラー」を手に入れた“普通の人”が「インターネットがどうたらこうたら」なんていう知識など持たずにメールの作成と送受信をしているわけですから、「こんなことしちゃダメでしょ」と言われたとしても「そんなこと知らん。できるようになっている方が悪い。」と開き直り、「イントラ?なんじゃそりゃ、そんなものいらん。」とOUTLOOKさえあればそれでOKみたいな状態になります。

そのような人たちを相手に「HTMLファイルを作ってイントラへアップ」なんていうことを進めることができるわけがありません。「HTMLファイルを作る」ということ自体が理解できるわけがないのですから。

ということで、OUTLOOKで文章を書いてもらい(この際、カラフルなやつでも構わない)、宛先に「イントラ」を指定して送信すると自動的にイントラにそれが現れるというような仕組みにしない限り「イントラ」が普通なものになるということは有り得ないようです。よくある掲示板のような入力フォームをイントラに用意したとしても「なんでOUTLOOKでできないんだ」となるだけです。過去にいろいろと作りましたが短時間で自然消滅しましたから…。

30歳限界説

最近、ふと気がついた(思い出した?)のですが、私の上司である某部長と私は一回り近く年齢が違うので、私が入社した時は某部長(当時は課長)は三十半ばだった。当時、某部長はすでに「開発」というものをいっさいしていなかった。所属長だからという理由かもしれないが「もう開発はできない」という雰囲気が漂っていた。立場上「あえて開発をしない」ならば部下が必死こいて開発している姿を見れば一言二言あっても良かったはずだが、まったくもって無関心であった。

入社してあっという間に18年が過ぎようとしている。つまり、当時の某部長よりは年齢が上になってしまったわけだ。そう思うと何かすごく虚しさを感じます。新入社員から見ると「三十半ば過ぎのおじさん」はかなり年上に感じているはず。私が当時そう思っていたから。しかし、自分が「三十半ば過ぎのおじさん」になってみると、当時抱いていたほどのギャップを感じません。私が新人のころは年輩の人たちと話すことなど皆無でしたが、現在において私や私の同年代の人たちは若い人たちと会話しています。

半年くらい前の面談で年齢的に開発ができなくなると私に対して言う某部長。私が入社する頃には「30歳限界説」が定説でした。「パリパリ開発できるのは30歳まで、その後は(能力的に)開発ができなくなるのでマネージメントに徹するようになる。」と世間では言われており、ソフト会社に就職して30歳でクビになるよりは製造業に就職しておけば30歳を過ぎても何か仕事はあるだろうと思って今の会社に就職しました。しかし、私はもうすぐ40の大台に乗りそうですが現役です。30歳を過ぎても時代の変化に合わせて新しい言語を独学で習得して仕事に活かしています。

結局のところ「本質的に開発が好きでやっている」のか、それとも「たまたま就いた仕事としてやっている」のかの違いなのだろうと私は思います。「30歳限界説」を唱えていた人たち、そしてその通りにやってきた人たちと言うのは「単なる仕事」として開発に携わってきただけのことで「好き」でやってきたわけではないのでしょう。

先日、某部長から「新入社員を一人入れるが」という話があった。ぜひとも「開発向きな人材を入れてください」とお願いしたが「具体的にはどんな人材なのだ」と返される。そこで「タイプ」の説明をしたがイマイチ理解してもらえなかった。

「探究心旺盛で創造が好き」
そういう人ならば知識や技術など持っていなくてもなんとかなるものです。

続きはまた今度。